たった１本のビールの空き瓶

お酒で気を紛らしたくなる。この時代になっても、中にはやけ酒に走る人もいるだろう。あるおじいさんはアルコールの依存性に屈してなんかいない。そう確信させるビールの空き瓶に目が留まりました。

最近お世話することになったおじいさんがいらっしゃいます。
愛称は「オーライさん」にしました。由来は、いつも交差点で一時停止すると、左側から車や通行人が来ないか？目視してくれる。何も来ないことがわかったら、必ず「左オーライ」と教えてくれるからです。助手席に座るナビゲーターの心得を、しっかりご存知の方だなぁと感心しています。その都度、私は「了解です。有り難う御座います」。と返すのです。

オーライさんはアパートで一人暮らし。経緯は知りません。もちろん敢えて尋ねることなどしません。極々私的なこと。それに職域から逸脱しますからね。

背中が曲がり、震える手で杖を突き、心もとない足の運びのオーライさん。
誰も待つことのない部屋は真っ暗です。足元が暗いから躓いて転んでしまう可能性は大です。だからお迎えの際は、蛍光灯の豆電球を点けてから部屋を出るように促しています。

先日どんな料理がお好きなのか？訊いてみた。おでんが大好きなようです。
「おでんは美味しいね。おいしい、おいしい」と繰り返すのです。

先日オーライさんの部屋まで、手を引いてお連れした時のことです。玄関から出た通路脇に、ビールの小瓶がポツンと１本立っていました。
たまには一杯やっているのだろうと思わせる空き瓶でした。

袋に入った温めるだけで召し上がれるおでんセットを肴に、ビールの小瓶を傾けているのでしょう。
私も一人暮らしが長かったので、時には寂しい気持ちになるのは十分わかります。だからオーライさんも晩酌することで、一人暮らしの慰めとしているのかもしれない。そう思った。

もし気晴らしの晩酌ならば、空き瓶が少しずつ増えるはずです。だけどその１本が、２本３本と並ぶことがない。毎回玄関先には同じ小瓶が置いてあるだけなのです。だから飲酒を生活習慣にしていないと見て取れた。

アルコール摂取に関しては、依存することはない。健康的な生活を送っていると推察した。少し安堵しました。

既に禁煙と高血圧に対してのスマホアプリが医療機器として承認されており、医師が処方しています。
さらにアルコール依存症を治療するための減酒アプリが、保険適用として承認されました。(※)だけどオーライさんには無縁ですね。

それはそうと、あの１本は一体どんな気持ちで栓を開け、そして空けたのでしょうか？果たして訊いて良いものか、止すべきか・・・。

憂う想いを助長させてはいけない。いくら飲んでも、お酒は一時の癒しに過ぎませんからね。

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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【出典】
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（＊）２０２５年７月２０日読売新聞　社会面